人を 拳が痛むほど殴ったのは 初めてだった
顔面を おもいっきり殴られたマットは さぞかし痛かっただろう
鼻血が出たかもしれない もしかしたら 鼻が折れたかもしれない
でも 罪悪感なんて 1ミリも感じない
それ以上に 私の心は 傷つけられたのだから
金曜日の夜に マットと久しぶりに飲む約束をした
マットと会う時は いつも同じ店だった
マスターが家を改装して経営している小さな店
都心の駅から少し離れたそこは いい感じに静かで
私達のお気に入りだった
いつも通りにカウンターに座って 他愛も無い話をする
仕事の話 メロの話 施設に居た頃の思い出話 恋の話
マットは相変わらず 特定の彼女を作らないで ふらふらしている
「もう いい年なんだから そろそろ 腰を落ち着けたら?」
まるで他人事のように言ったのは 強がりだった
落ち着くべきなのは自分も一緒
でも 惨めな素振りを見せたくなかった
結婚できないんじゃない 今はあえて自由を楽しんでるんだ
そうゆう風に見せたかった 見られたかった 哀れまれたくなかった
マットはその言葉が放たれた後 持っていたグラスを勢いよくテーブルに置いた
マットは しばらくグラスの中の揺れる液体を眺めていた
付き合いは長いが マットが女相手に 不機嫌な素振りを見せたことは無かった
沈黙が苦しかった けれど 発言が許されるような雰囲気ではなかった
グラスの中の液体が 水平になり マットを映す
水面に映し出された自身を見つめながら マットが口を開いた
社会的に仕事で成功した男は独身でも咎められない けど 女の場合は違うだろ?
どんなに仕事で成功した女でも いい年して独身だと 余り者と見なされる
自分より全然劣る既婚の女に 見下されるんだ お気の毒に ってな
腰を落ち着けるべきはお前だろ? 女には出産ってタイムリミットもあるんだろ?
呼吸もせずに一気に捲し立てるマットの言葉
それは25を過ぎた私には相当な精神的ダメージを与えた
分かってる でも 結婚って一人じゃ出来ないじゃない
若い頃は 感情に任せて楽しい恋が出来た
でも もう そんな年じゃないのよ
次にする恋で最後にしなくちゃ間に合わないの
そう考えると なかなか踏み込めない
結果 色んな男をふらふら
この人がもしかしたら運命の相手かも・・・ なんて愚かな夢を抱きながら
今まで抱えていた 言葉に出来なかった不安が マットの言葉で溢れてしまった
哀れまれるのが一番嫌だったのに
声を荒げて 惨めなところを晒して おまけに手まで上げてしまった
逃げるように店を出て 兎に角 店から離れようと歩幅を広げた
マンションの横に設立された 小さな公園のベンチに腰をかける
大きなため息をついて夜空を見上げた
一体いつ頃からだっただろうか 引け目を感じるようになったのは
心に住み着く小さな焦りを悟られないよう 必死に隠して恋愛をするようになったのは
こんなはずじゃ なかった こんな未来を描いてたわけじゃ なかった
滲む月を見上げながら 弱気になるのは きっとアルコールの為だ
今まで頑張ってきた 今日くらいは 「可愛そうな自分」 に酔いしれてもいいじゃないか
なんて可愛そうな私 仕事も出来て 見た目も並以上 料理も出来る
性格だって・・・悪くは無いはず 悪いのは私じゃない
悪いのは 見る目の無い世の男共だ
ポツリと零れる台詞 「私って なんて可愛そうなんだろう」
「可愛そうなのは俺だろ」
聞きなれた低い声に振り返る
後ろに立っていたのは 鼻にティッシュを詰めた マットだった
「・・・なんでここが分かったの」
威嚇するような声色を 出してしまう自分が 大人気なかった
「GPS機能 携帯の」
「・・・何時から居たの」
「ん〜〜・・・月見て泣いてるところから?」
「・・・サイテー」
私の隣に座るマット それに対して あからさまに距離をとった私
「可愛そうなのは俺だろ?」
私の顔を覗きこむように問いかけるマット
「自業自得でしょ!」
そう言い捨てて 顔を背けた
「20年以上も片思いをし続けた相手に結婚を勧められて・・・」
マットの長い腕が私の肩にまわる
「おまけに顔面殴られて 鼻血ブーだぜ?」
肩を引き寄せられてマットの胸に顔を埋めてしまった
「な? 可愛そうなのはお前じゃない 俺だろ?」
見上げれば 月明かりに照らされた 綺麗に整った マットの顔
顎に手をかけて キスをしようとするマットに一言
「鼻のティッシュ取って」
「・・・了解」
そっと唇を重ねて 名残惜しげに離す
がさがさと 後ろの両ポケットから 何かを取り出すマット
左のポケットからは 小さく折りたたまれた紙を
反対側のポケットからは 見るからに高そうな指輪
どうやら幸せは 案外 身近に落ちているらしい
←
(健やかなる時も病める時も愛してあげる)